29才、菜七子の場合。

気がつけば29才になっていた。


仕事に追われ、恋愛に失敗し、輝かしいと信じていた20代はただただ慌ただしく過ぎていったような気がする。

菜七子はため息の代わりに、大好きな日本酒を流し込んだ。


こんなにも気分が沈んでいる原因ははっきりしている。

祐奈からの結婚式の招待だ。

中学時代の同級生5人で作ったLINEのトークルーム。

菜七子にとっては気が重くなるだけの場所。

メッセージが来るのは年に一度かそこらだ。

結婚式の招待、妊娠、出産、2人目の妊娠、2人目の出産・・

友人達が人生のステージを颯爽と駆け上がって行くのをいつも下から眺めるのだ。

みんなが眩しく輝かしく、そしてひたすらに忌々しかった。


菜七子にとって祐奈はそのグループでも唯一心を許せる最後の独身組だった。

独身が自分達だけになってからは、よく二人で飲みにも行った。

そう言えば29才の祐奈の誕生日も二人で祝った。

あの女に高級芋焼酎、魔王を注文してやったりもしたのに。

菜七子の頭の中で速やかに算盤が弾かれる。

その算盤にはこれから渡す予定のご祝儀、三万円も追加された。


--やけ酒だ。

もう一杯日本酒を流しこもうとしたその時、徳利の中が空になっている事に気がついた。


「おにいさん、もう二号追加で」

「また熱にします?今度は冷ですか?」

「冷で」


注文からすぐに、感じのいい若者がニコニコと徳利を持ってくる。

カウンターだけのこじんまりとしたこの店を贔屓にする理由はいくつか挙げられるが、その一つがこの店員だ。

小柄だしイケメンでもないが、何とも落ち着きのある雰囲気を醸し出している。

「今回は備前焼の徳利ですよ」

「おー、しぶいね。おじさんくさい私にぴったり。あはは。」

菜七子は自虐的に笑いを取りに行ったつもりだったが、店員はニコニコと優しく答えた。

「この備前焼はね、一見確かに渋くて、その深みゆえ荒々しくも感じるかも知れません。

でもいざ持ってみると、とっても手に馴染んで使いやすいんですよ。

お酒の味もまろやかにしてくれますし、

僕はこの備前焼に奥ゆかしい女性らしさを感じる時すらあります。」


その言葉に菜七子は何も答えられなかった。

時が止まったように感じたのだ。

だてに29年間生きていない。

たった今自分の身に何が起こったのかはっきりと分かる。


-恋をしたのだ、この店員に。


鼓動が早くなり、手に汗がにじみ出る。

悟られまいと作ったとっさの愛想笑いは失敗したに違いない。

菜七子は急に自分の顔のテカリが気になってきた。

先程まで見て見ぬふりをしていたパンストのほんの僅かな伝線ですら、顔から火が出るほどに恥ずかしい。

菜七子は慌ててトイレに駆け込んだ。

鏡に映る自分をチェックして愕然とした。

前髪から後ろ髪まで全て後ろで束ねて括っただけの髪。

おしゃれでも何でもない証拠に、いくつもの乱れ髪が耳の辺りから飛び交っている。

この正真正銘の乱れ髪を見たら与謝野晶子があの世から椿油でも送ってきそうである。

肌もくすみまくりだ。

生理前を言い訳に肌のガサつき、ベタつきを見て見ぬ振りした今朝の自分をひたすら呪う。

シミをコンシーラーで隠すことさえしなかった。

唇のテカリもグロスではなく、先程ペロリと平らげた牡蠣フライによるものだ。

後でもう一皿注文しようと思うくらい美味しかったのだが、今は食欲どころではない。


どうして、こんな日に限って・・!

安物のスーツは、より安物らしく見えるようによれよれになっている。

今週クリーニングに出すのをケチったのだ。

パンプスは走りやすい5㎝ヒール。

毎朝駅まで猛ダッシュするので、かかとが擦れてしまっている。


-もうお手上げだ。

菜七子は恋の始まりの可能性がどんどん遠のいていくのを感じた。

よくよく考えれば相手の名前すら知らないのだ。

自分はと言えば、毎週金曜日によれたスーツで日本酒をがぶ飲みする顔テカテカ女である。

妖怪顔テカテカ女が恋をしても報われまい。

最低限の化粧直しだけ済ませて、席に戻った。

自分がひどく哀れに思えたが、先程注文した日本酒があるため店をすぐ後には出来ない。


そこへまたニコニコと店員が現れた。やはりその笑顔にときめきを感じてしまう。

「良ければこれ食べてみて下さい、まだメニューにはない試作品なんですけど。」

店員が持つ皿にはちょこんとかわいらしく赤とピンクの塊が鎮座している。

何者か分からないまま菜七子が口にすると、それはパプリカと生ハムだった。

塩気が少ないのに臭みがない。噛むたびに旨味が溢れ出す美味だった。

素直に美味しい事を伝えると店員は、

「よかった、ウチの嫁さんの実家が養豚場なんですよ。そこの豚を自家製の生ハムにしてみたんです。常連さんの意見を聞きたくて。」


菜七子は持っていた箸を落としそうになった。

『嫁さん』

その言葉が何度も頭の中で響き渡る。

今この瞬間、自分が感じているのは絶望感なのか羞恥心なのか。

あらゆる感情が慌ただしく駆け巡るが、頭の中だけは妙に冷静だった。


-あたし結婚したいわ。

今までごまかしながら過ごしてきたが、今日この瞬間に確かなものとなった。

祐奈だけではない、こんな若い年下の店員にすら『嫁さん』とデレデレ呼べる相手がいるのだ。

先程まで感じていたときめきは一気に冷め、妙にはっきりとした頭で菜七子はある決意をした。

味すら分からなくなった日本酒を一気に飲み干し、そそくさと勘定を済ませ街に繰り出した。


閉店前のデパートに駆け込むと、クレジットカードを握りしめて靴売り場に向かった。

いつもショーウィンドウから眺めるだけだったジミーチュウのブラックスエードのパンプス。

覚悟の11㎝ヒールだ。

まずはここから始めよう。

大きな決意と共にジミーチュウを履いた。

菜七子にとって高額な買い物だったが、もう頭の中の算盤は機能しなかった。


いつもより少し高くなった身長で、遠い未来まで見渡せそうな気がした。

菜七子の目にその未来は明るく輝いていた。